虫の音 草の音 夜の静寂

 

 どれだけ、さて、走ったか。
 草鞋は既に脱げていた。素足。その小さな、少女のモノである足は、破け、
血でズタズタに汚れ、もはや黒い。

 逃げ疲れていた。

 

 どこかの草原 天に月

 

 初夏、萌える草々は高く育ち、小さく丸まって倒れた少女を優しく包む。

 ようやく泣いていた。

 静かに流れる涙は、彼女の汚れた頬にきれいな線を残す。

 くやしくって泣いていた。ないていた。

 何もかもに悔しかった。理不尽なこの世、悪鬼の如き落武者野武士、情けも
ない神、弱い自分。
「う----ふぅぅっ-----うぇっ」
 ギシリ、と奥歯が鳴る。兄でさえ恐れた自慢の歯。
 家に炎がまわるその時、兄が己に投げ渡した懐刀を握りしめる。
 野武士-----必ず殺して、こ ろ し て や る
 幼い瞳が切れた。

 ひゅぅんっ

 風を切る音。

 ひゅぅんっ

 少女が固まった。聴き覚えのある音じゃないか。
 細く、長く、鋭く、よく斬れるモノが、空を裂く音!

 ひゅぅんっ

 奴らだ-----! 来ちゃったんだ!

 懐刀を、知らず抜く。足の痛みなど既に脳になく、

 ひゅぅんっ

 低く、ゆっくり、ゆっくりと

 ひゅんっ------

 草から身体を起こし

 ひゅんっ!!

 それを見た。

 

 蒼みがかる月下、そいつは独りだった。
 藍の着古し、黒袴、うなじで束ねたザンバラ髪。蒼く照らされた横顔は、
まだ若さの残る無精ヒゲの顔。
 ひたすら、刀を振っていた。
 少女は立っていた。
 その男は少女になど気付かず、大きく振りかぶる。右肩に担ぐように、刀
は男の腰まで届き、

 ひゅぅんっ

 きれいな、とても綺麗な、袈裟斬りの弧を夜の帳に描き、男の左脚へと流
れる。

 ひゅぅんっ

 力強く、だが美しく。

 ひゅん-----!

 刀身が蒼月の光を

 ひゅぅん!!

 少女に返す。
 ただ見ていた。
 その美しい袈裟斬りを。

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